こときちのつぶやき

2005年 5月

夜景を見て何を思いますか 2005年5月27日(金)

とあるサイトに、東京の夜景が綺麗だ、という話があった。以前は電気のムダ使いで素直に夜景が綺麗とは思えなかった、とあるのだけれど、僕は今でもそう思う。多分、僕はひねくれた人間なんだろう。クリスマスのきらびやかな電飾を見て綺麗だな、と思う。街の夜景を見て綺麗だな、と思う。だけど、心の底から感嘆することは出来なくて、どこかで「これで良いのかな?」と、思ってる。電気なんて来るのが当たり前。そう思えれば何の疑問も感じないかもしれない。だけど、コンセントの先に繋がっているであろう、昼夜を問わずフル稼働している巨大な発電設備と、ひっきりなしに入港して来る巨大なタンカーを見てしまうと、これで良いのかな?と、思わずにも居られない。

街の明かりに限った話ではなくて、電灯で使われる電力よりも工場設備の電力消費量の方が遥かに大きくて、会社で仕事をしながら「世の中本当にこれで良いのかな?」と疑問に思う時がある。多分、良くないんだろう。だけど、毎日毎日莫大な電力を消費していく工場も生活の糧を得る為には必要なもので、食べ物や、衣類や、電化製品や、その他生活に必要な様々な物もこうした工場から生産されている物で、僕がこの日本でサラリーマンとして普通に生活していくにはそうした矛盾を抱え、目を背けなきゃいけない。多分みんなそうなんだろう。日々の生活で手一杯で、この世の行く末を憂う余裕も無いのかもしれない。僕は都会に住んでいなくて良かった。目に映るのもの全てに疑問を抱きながら生活するのは辛いから。いや、住んでしまえばそれも当たり前になって、疑問も感じなくなるかもしれない。そういうものかもしれない。

夏でも涼しくて、冬でも暖かくて、夜でも明るい。便利で快適な世の中になったけれど、自然の摂理からはどんどんかけ離れて行くんだね。一度経験してしまった快適さからは、もう後戻りは出来ないし、いつか人の業を背負わなければいけない時が来るかもしれない。でも、そのツケを僕らの子供が背負わなきゃいけないとしたら、それはとても悲しい事だよね。

夜景を楽しむ人達を非難するつもりはない。むしろ、ムダに放出されるエネルギーならば、眺めて楽しんだ方が有意義というもの。だけど、僕には街の明かりがどことなく切なく感じる。

 

ケロ太とケロ子の運命的出会いとその仕掛け人 2005年5月26日(木)

僕の名前はケロ太。今日はいい天気だから、こうしてひなたぼっこしてるんだ。あぁ気持ちがいいなぁ。と、思ったらいきなり大雨! うわっ! 何だ!? いい天気なのに!? とっさに振り返ると、そこにはメガネを掛けた陰湿そうな人間が「あぁ面倒臭ぇなー。仕事したくねぇなー。設備点検なんてかったりーなー。適当に誤魔化しちゃおうかなー。お?こんな所にカエルが。こんな所でくつろぎやがって。イタズラしてやるじょー。でも、こんな所で立ちションしてたら変態と間違われそうだし。つーか、仕事中にカエルに向かって立ちションしてる様って凄くマヌケだし。仕方ないからホースで水掛けてやろう。」って顔して僕に水を掛けてくるじゃないか! 僕は溺れそうになりながら水激に押し流されて、気がつけば物陰に押し込まれていた。そして・・

私の名前はケロ子。今日はいい天気だから、こうしてひなたぼっこしてるの。あぁ気持ちがいいなぁ。その時、何処からか悲鳴が聞こえたの。誰かが襲われてるんだわ。住み難い世の中よね。地面は何処も黒くて硬くなってしまって、虫だって居やしないんだから。と、思ったらいきなり大雨! きゃ! 何!? いい天気なのに!? とっさに振り返ると、そこにはメガネを掛けた陰湿そうな人間が「あぁ面倒臭ぇなー。仕事したくねぇなー・・以下略」 私は溺れそうになりながら水激に押し流されて、気がつけば物陰に押し込まれていた。そして・・

あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら 僕らはいつまでも 見知らぬカエルのまま

こうして僕らは陰湿そうなメガネ人間のいたずらで、運命的な出会いを遂げた。

つーか、仕事しろって。

 

感動的スパム 2005年5月25日(水)

送られて来るメールはほとんどがスパムで、掲示板の書き込みもスパムが急増して、もう嫌になった。最初は笑っていたけれど、これじゃ笑うに笑えない。

それは、ほんとどうしようもなくくだらない内容だからだ。スパムだから内容がくだらないのは当たり前、と思うだろうか。でも、嫌がらせが目的ではなく、営利目的(非合法ではあると思うけれど)であるなら、相手に内容を読ませ、アドレスをクリックさせなければ意味が無く、それには高度な文章能力が必要になるはずだ。なのに送り付けられるスパムは、「逆援助OK」とか、「人妻即ホテルOK」とか、「当選しました」とか、どれもが一目見ただけでスパムと分かるような短絡的なタイトルと内容で、それが不快でならない。「ん?待てよ。」と思える程のスパムには、ほとんどお目に掛かれない。

どうせなら感動に打ちひしがれる程の文章を書いてくれりゃいいのに、どれもが「そんなバカな」と一笑するような内容で、本当にやる気あるの?と思えてしまうけれど、それでもそんなスパムの餌食になる人が大勢居るのだろうし、どれもこれも似たり寄ったりの内容なのは、誰しも心の奥底ではそういうものを望んでいるからなんだろうね。

 

たまごっちと本当に欲しいもの 2005年5月22日(日)

娘の友達が、「たまごっち」で遊んでいる。それを見ていれば当然欲しくなる訳で、娘が「たまごっちが欲しい。」と、言い出した。まぁ良いか。誕生日プレゼントはたまごっちな。と、オモチャ売り場へ買いに行ったら何処も売り切れ。な・・!? 何故!? 発売間もない訳でもないのに何故たまごっちが売り切れ? とにかく、何処も売り切れで売ってない。仕方ないから、コレで我慢しときなよ。と、昔僕が使っていた初代たまごっちを娘にあげた。

初代たまごっちも大変だった。なんせ、何処も売り切れで手に入らない。苦労の末手に入れたたまごっちは、なんてことない電子玩具で、すぐに引き出しの奥にしまわれた。手に入らないから、みんなが欲しがるから、欲しくなる。そんなものだったのかもしれない。

結局苦労して娘に新しいたまごっちを買ってあげた。でも、もう35になる僕は、たまごっちごときには惑わされない。本当に欲しいもの。なかなか手に入らないから、みんなが欲しがるから、そんな理由ではなくて、僕が本当に欲しいもの。

 

冒険とエール 2005年5月14日(土)

以前から幾度か書いてきた、北京からモンゴルのウランバートルまで走り抜けるラリーレイド。そのラリーの広告が、バイク雑誌の後ろの方に載っていた。先日まで中国では反日デモが激化していて、ラリーが無事に開催されるのかどうか少々心配していたのだけれど、エントラントは思いの他集まっているみたいだ。

広告には、エントラント(参加者)が一人紹介されていた。銀行に勤めるその人は、ラリーにカブで出ると言う。あの原付バイクで、だ。それを聞いて、どう思うだろう。仕事でカブに乗るだけで、手練のライダーじゃない。それに、いくらカブがヘビーデューティーだからといっても、未舗装路を激走したり、砂漠を走ったりする様には出来ていない。大体、パンク修理だってやった事が有るんだろうか。完走出来るかどうかは、やってみなければ分からない。でも、一般的なオフロードバイクに比べたら、それは極めて困難になるだろう。バイクの事を知っている人なら、「そんな馬鹿げた事を」と、鼻で笑うかもしれない。

でも、それを笑えるだろうか。もしそのライダーが途中でリタイヤし、完走出来なかったとしても、机の上で確率を計算し、「そんなの無謀だ。出来っこない。」って決め付けてしまって何も出来ないで居る僕らがそれを笑えるだろうか。

冒険って、金を掛けなければいけない、というものじゃないんだ。冒険に一歩踏み出した彼らに、エールを送りたい。

 

ゆとり 2005年5月8日(日)

連休で帰省した兄と、久しぶりに会った。僕は仕事だったからあまり話せなかったけど、兄の会社では住宅手当がカットされ、給料形態も年俸制になり、残業が給料に反映されなくなったらしい。

奥さんが買ってきた育児系の雑誌。ページをめくると、「子供にはゆとりではなく頑張りを。親には頑張りではなくゆとりを。」と書かれていた。雑誌の内容は、多分誰しも「なるほど」と頷けるものだと思う。それらを実践するべきだという事は分かってる。でも、それを実践出来るだけの「ゆとり」が、今の大人には有るのかな。

給料はカットされ、でも労働時間が減るわけでもなく、夜遅くに疲れきって帰宅したら後は飯を食って風呂に入って寝るのが精一杯。そんな毎日にゆとりを求めるのは酷であって、大惨事を引き起こしたJR西日本の体制は痛烈に批判されているし、批判されてしかるべきだとは思うけれど、でもそういう状況が他人事とは思えない人だって少なくないはず。後からなら誰だって、いくらだって綺麗事は言える。でも、理想や綺麗事だけでは飯が食えないっていう状況に置かれた人の方が多いんじゃないのかな。数秒の遅れも許されない電車のダイヤの様に、みんな「ゆとり」など無いんだよね。

少子化問題とか、教育問題とか、それは深刻な問題で、何をどうすれば良いか、というのは簡単には結論出来ないのだけれど、でも、子供と一緒に晩御飯が食べれて、子供と一緒に寝る事が出来る僕は、とても恵まれているんだと思う。それに感謝しつつ、その「ゆとり」を有効に活用できない自分を反省しよう。

 

口の悪いオヤジになりたい 2005年5月6日(金)

本屋で手に取ったバイク雑誌に、バイク屋が紹介されていた。綺麗で明るい店舗に愛想のいい店員、という今時なバイク屋ではなく、口の悪いオヤジの下町的な古いバイク屋だとか。それが良いとか悪いとかではなく、その店主の「良いことも悪い事も言う」という言葉は、ちょっと考えさせられた。良いことは誰でも、誰に対しても言いやすい。反面、悪い事、特にそれが相手を否定する様な事は、なかなか言い難い。

僕はバイク屋ではないけれど、こうしておおっぴらにHPを開設している事もあって、極稀にバイクの相談をされる事がある。以前、「DR800に乗りたいんだけど」と言う人が居た。DRは楽しくて面白いよ。という様な返事をしたと思うのだけれど(覚えていないという時点で既に無責任な発言なんだけれど)、念願のDRを手に入れたその人は、あまりの乗り難さにすぐに手放してしまった。確かに誰もが簡単に自由自在に操れるという類のモノではない事は僕も分かっていたけれど、「好き」という情熱と慣れで対処出来る範疇だと思っていた。人それぞれのキャパシティがある訳で、残念ながらその人にとっては解決出来る範疇に無く、僕もそこまで想定出来なかった。

「SRXが欲しいのだけれど」と、相談された人が居た。なるべく実情に合ったアドバイスをし、その人も程度の良いSRXを買うことが出来て僕も喜んでいたんだけれど、喜びもつかの間、事故に遭った。幸いにも打撲程度の怪我で済んだみたいだったけれど、それ以降バイクから遠ざかってしまった。修理されたSRXは、その後動かされてないみたいだった。もしかしたら、もう手放してしまったかもしれない。だけど、それでも「バイクに乗りなさい」なんて言えないよね。「バイクに乗る」という事は、そういうネガティブな事からも目を背けられないということ。バイクを買った時にくれた写真には、綺麗なSRXと笑顔のその人が写っていた。でも、バイクで笑顔にはなれなくても、バイク以外で笑顔になれるのであれば、それはそれで仕方が無い事かもしれない。

僕自身、何度も投げ出され、車にぶつかり、膝はアザだらけになって、それでもなおバイクに乗らなければならない理由なんて自分でも分からなくて、そんな状態だから他人に「バイクは良いよ。君も乗りなよ。」などと軽々しく言う事なんて出来やしない。だけど、自分で考えて、自分で決意して、それでも乗りたいと思う人には、僕の拙い経験ではあるけれど助言してあげたい。偽善ではなく、あの口が悪いバイク屋のオヤジの様に、良い事も悪い事も言えるようでありたい。

 

自問自答 2005年5月2日(月)

GW真っ只中の5/2。この2日だけ、僕は仕事が休みになった。僕は休みだけど、子供は学校と保育園があるから何処かへ出掛ける訳にもいかず、僕は奥さんと一緒に職安に行った。奥さんがパートの求人を見たいと言うからだ。GWというのに職安の駐車場は一杯で、いつにも増して人が多い。訪れるのは比較的若い人が多く、仕事には就いているけれど転職を希望している、そんな感じの人が多いのかもしれない。

幸い、僕は今の会社に辞めたくなるほどの不満は無い。ストレスが無い訳ではないけれど、それは仕事の内容であるとか、人間関係であるとか、そういう事ではなくて、直したくても直せない(僕の仕事は工場設備の保守で、修理や整備が主な仕事。)、それは予算の都合であったり、設備を止めるだけの時間的余裕が無いとか、人手が足りないとか、そういう事に起因するジレンマであって、逆に言えば今の会社の現状では仕事にあぶれる様な事は絶対にないとも言えるのだけれど。

中途で入社して9年目。僕は今年で35になる。職場には僕より下に誰も居ないから僕はずっと下っ端で、いつまでも若いつもりで居たのだけれど、ふと気がつけばいつの間にか中堅どころにになっていた。優秀な部下によるプレッシャーも無く、有能な上司に引っ張られるでもなく、それはそれで過ごしやすいのだけれど、そんな中途半端な生ぬるい状態だから、いつまで経っても半人前気分が抜けていないのかもしれない。工場という閉ざされた環境下だから比較対象となる者も無く、僕は「出来る」のだろうか。「出来ない」のだろうか。努力しているのだろうか。ナマけてるのだろうか。他の会社では通用するのだろうか。今の会社だから頼りにされてるだけなんだろうか。暇つぶしに眺めていた求人情報を読みながら、考えていた。

考えた所でその答えなんか分からないのだけれど、その答えは結局無意味である事に気がついた。他人と比較する事に大した意味は無いから。出来るか、出来ないか。努力してるか、していないか。それは自分自身が一番良く分かっているはずだから。

明日から、また頑張ろうと思う。

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