こときちのつぶやき

2005年 6月

日曜日はチェケラ! 2005年6月30日(木)

日曜日って楽しい? 僕はそれ程でも。そりゃ、仕事よりは休日の方がいいけど、バイクは壊れてるし、子供の相手もあるし、僕の勝手ばかりは出来ないし、そうすると日曜日を待ちわびることもなくなった。

だけど姉さん、最近は違うんだ。日曜日が待ち遠しくて仕方が無いんだ。何故かって? それは「エウレカセブン」があるからさ。エウレカセブンって何やねん?サザンのエロティカセブンじゃないの?っていう人は検索してもらうとして、このエウレカ、車から人型ロボットに変形するメカニズムとか、サーフィンの様にボードで華麗に空をライディングするアクションシーンなどがカッコ良くて超魅力的。と、いう訳じゃなくて、僕はそんなメカとかカットバックドロップターンなどどうでも良くて、ただただ、エウレカ。エウレカ良いなぁ。

エロゲーの次は美少女ロボットアニメ。ヲタクの王道まっしぐらな僕は、もう怖いもの無し。それで良いのかお父ちゃん、と、思いつつ、日曜の朝7時はチェケラッ!

 

プッチバイクは無限大 2005年6月22日(水)

子供を連れて、鈴鹿サーキットに出掛けた。遊園地の一角の、子供向け遊具。その中に、子供が乗れるバイクが有る。娘の付き添いで、僕もそのオモチャみたいな小さな電動バイクに跨る。

あぁ、そういう事だったんだ。僕は忘れかけていたよ。電気とかガソリンとか、エンジンの大きさとか構造とか、パワーとかスピードとか、そんなのじゃなくて、ただ僕を乗せて走る輪っぱが2つの乗り物。ただそれだけで、ほら、こんなにも楽しいよ。

5人ほどの小さなライダー達の中で、僕は一番の笑顔だった。

 

単純で純粋な判断の仕方 2005年6月20日(月)

そんな娘との自転車でのお出掛け、後で奥さんに怒られてしまった。娘はアトピーの気が有るから肌が弱く、強い紫外線や汗は良くないという事と、丁度昼寝の時間帯で昼寝をし損なったということ。まぁ、怒られるのももっともなんだけれど。

大人が物事を判断する時は、物事を総合的に、相対的に、多角的に判断して結論付けるのだけれど、例えば車と自転車の移動で言えば、自転車=暑い+面倒+しんどい+遅い=却下となり、自動車=エアコンで快適+楽チン+速い=決定となる。だけど、子供の判断って、楽しいか楽しくないか、面白いか面白くないか、だけで、その他の要因など一切関係が無くて、車と自転車を天秤に掛けると自転車が勝るんだよね。遊びでもそうで、後々のペース配分など一切無く、力尽きるまで全開ではしゃぎ、暑い事も関係なく、汗だくになっても走り回ってる。

妥協とか、打算とか、そういうものが一切絡まない判断が出来る事は、幸せな事なのかもしれない。妥協とか、打算とか、そういう判断の仕方は、もっと大人になってからで充分だよね。そういう判断しか出来なくなった僕は、単純で、でも純粋な子供の判断に任せて、炎天下の中で自転車を漕いでみた。

 

高尚な乗り物 2005年6月19日(日)

娘と近くのショッピングセンターに出掛けた。「車が良い?自転車が良い?」と、僕が尋ねると、娘はしばし考えた末に「自転車!」と、答えた。大人なら、迷わず車を選択するだろうに。苦笑いを浮かべながら僕は、娘に麦藁帽子を被せ、自転車の後ろに乗せ、30℃を超える炎天下の中、自転車を走らせた。背中越しに娘ととりとめのない会話をしながら、僕はなるべく車が通らない細い路地裏を抜けていく。自転車に乗ると、車からは殺意に似た不快な意思を感じるからね。

車に乗る事は偉い事なのかな。大きな車や、大きなエンジンでハイパワーな車に乗る事は凄い事なのかな。それらを購入し、維持出来るだけの経済力が有る事を誇示したいから? でも、車って結局他力本願なんだよね。エンジンの力を借りなければ何も出来ないただの機械の塊でしかない。つまり、いくら凄くてもそれは乗っている人ではなくて、機械が凄いだけなんだよね。更に、その性能を見せしめる為には、周りに危険と不快な思いをさせなければならない。それに対して自転車はどう? 人の力だけで、どこまでも走るよ。バイクは車に対して、もっと潔い乗り物だと思ってた。でも、自転車は更にもっとプリミティブでありながら、また、とてもシンプルであり、でもそれ故に純粋で高尚なモノに思える。

バイクをやめて、自転車にしようか。そう思うのは、バイクのエンジンが壊れているからだけじゃない。

 

千円分 2005年6月18日(土)

とある有名なバイクマンガの1シーンで、主人公(らしき人物)がバイク屋のオヤジを殴る、というのがある。乗っていたバイクのエンジンが故障し、その修理を依頼したバイク屋で修理費用が払えず逆ギレして店主をボコボコにする、という様な内容。結局、メカに詳しい知人に修理してもらう事になるんだけれど、何だよそれ。それで良いのかよ。だって、筋はバイク屋の方が通ってる。修理には金が掛かる。金が払えないのら乗るな。別に無茶な事を言ってる訳ではなく、当たり前の事を言っているにすぎない。怒鳴って暴力を振るって、最終的には人に助けてもらって丸く収めてしまって、若気の至りでそれで済んでしまうにしても、それがあたかもカッコイイという様な描写は違和感を感じた。

僕のバイクは煙を吐いて壊れた。直し始めてからもう2年以上経ってしまった。自分で直しつつトライ&エラーを繰り返してきたのだけれど、今回は少々厄介で、どうしても専門の業者に修理を依頼しなければいけなくなった。だけど、それは仕方が無い事。自分では出来ない作業は、出来る人に頼まなければいけない。どうもこの人の手間であるとか、技術に関することって軽視されがちな気がする。自分で出来るなら自分でやれば良い。出来ない事や物に対しては、それなりの対価が支払われるのは当然の事のはず。自分で出来ない事に対して「それって高くない?」って、どうして言える?

エンジン屋さんの技術に敬意を表し、ガソリンスタンドで僕は千円分だけガソリンを入れた。

 

価値観の違いと幸せな事 2005年6月8日(水)

多分、「軽トラって良いよね。」なんて言う女性など、そうそうお目に掛かれないんじゃないかと思う。価値観は人それぞれ。人それぞれ違うものだから、ピタリと合う人に出会える確率は非常に低いよね。

じゃあ、価値観が合う人と結婚することが幸せなのか?と、いうと、僕は必ずしもそうではないと思う。それが友達であるとか、恋人であるとか、各々が自立した立場であるならその方が過ごしやすいかもしれない。でも、生活を共にする夫婦となるとどうなんだろう。それが住まいであるとか、子供であるとか、夫婦で共有したり、夫婦で協力し合う様な事柄なら良いのだけれど、例えば車やバイクの様に各個人で楽しむような物の場合、やっぱりそれぞれ自分の物が欲しいと思うし、そうすると同じ物、もしくは似たり寄ったりの物が2つづつ必要になって、考え様によっては非常にムダが多くなる。それに、価値観が違うからこそ、今まで自分では見えなかったモノとか、気付かなかった事とか、知らなかった世界を覗くキッカケが出来るかもしれないしね。

夫婦で同じ事を楽しめるのは、幸せなのかもしれない。でも、同じ事を楽しめないからといって、それが必ずしも不幸という訳ではないと思う。ウチの奥さんは、僕の趣味を認めてくれている。積極的に干渉し合う事が全てじゃなくて、相手を否定しないこと。それも1つの幸せな事だと思うから。

壊れてばかりで全然動かないバイクを車庫一杯にバラしてセコセコ直したり、レースにも出ないのに軽トラックに乗り続けたりしても文句を言われない事に、僕は感謝してる。

 

ドライブに行きませんか? 2005年6月7日(火)

僕の愛車は軽トラックなんだけれど、それを見た娘の同級生のお母さんが、「軽トラって良いよね。」って言ってたよ、とウチの奥さんから聞いた。そこの旦那さんは、ロードスター(マツダの2人乗りオープンカー)にご執心らしいのだけれど、事もあろうにそのロードスターよりも軽トラの方が良い。ウチの旦那も軽トラにすれば良いのに。と、おっしゃってたそうだ。どうも経済的な観点から出た言葉でも無い様だったから、「ふ〜ん、珍しい奥さんだね。」と、いうのは僕の本音。だけど、本当は内心とても嬉しかった。

僕が軽トラに乗っているのは、バイクを運ぶ必要が有る(のかどうだか今現在は微妙な状況ではあるけれど)という事と、経済的な理由からなのだけれど、でも、それだけじゃない。どんどん豪華に肥大してゆく今の乗用車に比べて軽トラはとてもシンプルで、それゆえに面白い車だから。でも、一般的には、大きくて豪華なものが良い車だという認識の方が圧倒的に多くて、価値観は人それぞれだからそれはそれで良いと思うのだけれど、でも、小さくて安っぽい車に隠されている意外な楽しさに誰も気付いてくれないというのも、正直ちょっと寂しかった。軽トラが良いと言ってくれる人も中には居るけれど、それはとても少数派で、僕同様かなり趣味に傾倒した人達だから一般的とは言えない。

自分で使い、楽しむ物だから、僕はバイクも車も自分の基準で選ぶし、その真価について僕さえ分かっていれば、他の誰も認めてくれなくて構わない。そう思っていた。いや、本当は、そう諦めていたんだ。だけど、例えお世辞だったとしても、自営でも農家でもない(多分)一般的な主婦が「軽トラって良いよね。」と、言ってくれた事に、とても救われた気分になった。

今度ドライブに誘って、軽トラを満喫させてあげようと思う。

 

新人君と職人さんと僕の日記 2005年6月4日(土)

僕の職場に、新人君が入った。僕が中途で入社して以来8〜9年ほどの間、新人が入ることは無く、僕は35になるのにいまだに一番下っ端のペーペーだ、というのは以前も少し書いたけれど、ペーペーはともかく職場は慢性的な人手不足だったから、待望の新人君という訳だ。だけど困った事がある。

それは、僕が新人君の教育担当(という程の大げさなものではなくて、一緒に仕事して色々覚えてちょうだいという程度)になったのだけれど、僕は人を教えるのが凄く苦手だからだ。就職して以来ずっと一番下っ端だったから後輩が存在しなくて色々教えたり指示したりする事も無く、それ以前に学生の時の部活動だって率先して後輩の面倒を見る様なタイプではなく、「あれ?先輩居たんですか?」という程の存在感の無さで、オマケに口下手で、寡黙で、知的で、渋くて、ダンディな僕は(一部誇張)、つまり教育係には向いてないんだ。僕は一人で黙々と機械の相手をしている方が性に合ってる。

そんな折、ふと職人の話を思い出した。その道に精通した職人とか師匠は、弟子に事細かく指導しない、などという話。技術は師匠や先輩の作業を見て盗むものだ、とかいうもの。それは職人が教えたくないからではなくて、もしかしたら教えるのがヘタだったからじゃないのかな。饒舌でもなく、世話好きでもない寡黙な職人にとって、様々な技術やノウハウを逐一事細かに説明して教えるという事は、順序立てて分かりやすく説明したり、また、時間的な事なども難しかったのかもしれない。だから、黙って作業して、その様を見せてやるしか術が無かったんじゃないかな。逆に言えば、人に教えるのが上手いというのも、1つの優れた技術でもある。僕は職人ではないけれど、新人君と時間を共にして、そんな事を思った。

まぁ、新人君と一緒に仕事をする上で僕が一番困るのは、「仕事のフリをして日記やネットが出来ないこと」なんだけどね。

 

優しいフリ 2005年6月2日(木)

奥さん達の話題といえば旦那のグチなんてのも少なからず有ろうかと思うけれど、奥さんを通じてそんな他人の家庭事情を垣間見る時がある。面白おかしい爆笑夫婦漫才みたいな話も有れば、笑えない話も有って、例えばある人の家庭では旦那は全然子供の相手をせず、子供が小さくて夜泣きが大変な時も「うるさい!何とかしろ!」と怒鳴るだけで、休日も自分の趣味に明け暮れて、子供は父親に寄り付かないとか。そんな話を聞いて僕は、「それじゃ父親が居なくても構わないじゃないか。」と、つい言ってしまったのだけれど、いや、僕は他人の家庭事情をとやかく言える立場なのだろうか? と言うか、何様? と言うか、何者? と言うか、僕は一体誰?

僕は、なるべく子供と接するよう努力してきたつもり。子供が親を必要とする期間は短くて、その間に親が果たす役割も大きいから、幼少の頃は父親母親共に密接に子供と関わり合うべきだ、というのは以前も少し書いたはずだけれど、だから子供をお風呂に入れたり、ご飯を食べさせたり、トイレに連れて行ったり、一緒に寝たり、休日は家族で出掛けたり、子供が寝静まってから暗い中いそいそとバイクを直したり、つまり、子供と共に過ごしている。でも、それって僕自身の本心なのかな。様々なメディアから入ってくる「あるべき父親像」と対比させながら、僕の中で理想的な父親像を模造してるんじゃないかな。そもそも、今の奥さんと付き合い、結婚したから僕は今の僕なのであって、相手がもっと違うタイプの人、例えばとても大人しくて物静かな人だったなら、僕もあるいは前出のお父さんと変わらなかったかもしれない。本当の僕って、有って無い様なものなのかもしれない。

奥さんや子供に、時々「パパが眠たい時は恐い。」と、言われるんだけれど、眠たくて思考がマヒして配慮に欠ける状態になると、本性が出てしまうのかもしれない。その姿こそが本当の僕自身なのかもしれなくて、生まれもっての性格同様、僕の中の中核を成す基本的な部分は昔から何も変わっていないのかもしれない。そして、昼間の上辺の僕は、その時々の状況によって変わり得る不確定なものでしかなくて、単に良い旦那さん、良い父親を装って、優しいフリをしているだけなのかもしれない。

だけど、純粋無垢な小さな瞳で「パパ優しいから好き。」と、言われれば、僕は優しいフリを続けるよ。せめて、子供達が僕を毛嫌いするまでは。

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