こときちのつぶやき

2005年 2月

日本製 2005年2月27日(日)

最近は100円ショップで何でも売ってて、それはそれで便利で助かるんだけれど、特別安くなくても良いけど、特別高級でなくても良いんだけど、でもそれなりに信頼性の高い物が欲しい、と思った時に、以前なら「Made in JAPAN」を選べば良かったのだけれど、それが今はほとんど無い。本当に無い。日本の一流メーカーの製品であっても、大抵はアジア製だ。

かと言って欧米の製品が良いかと言うと一概にそうとも言えず、大体僕はアメリカの製品が好きじゃない。アイデアはとても素晴らしかったりするのだけれど、作りが非常に大雑把な製品が多いからだ。以前、アメリカ製のバイクのマフラーを買ったのだけれど、届いたそのマフラー、ユーザーがドリルで加工しなければいけない代物だった。日本製では、エンドユーザーがドリルで加工しなければ使えない様な製品はまず考えられない。で、「何でドリル?」と、訳も分からずそのまま使っていたら、走行中にマフラーの中身がスッポ抜けた。スッポ抜けたマフラーの中身は後続車に轢かれて、僕のマフラーは取り付けた直後にオシャカになったのだけれど、一歩間違えば大事故にもなりかねず、マフラーの中身が轢かれた程度で済んで良かったのかもしれない。けど、手痛かった。

今の時期、空気が乾燥するから、お部屋には加湿器など有った方がよろしいのだけれど、ウチには以前通販で買ったアメリカ製の加湿器が有る。「風邪をひいたら、ママの優しい手と、○○」で有名なメーカーの加湿器で、メンソールの香りがしてスーハーする気分になるし、外見もキャンディみたいな形をしていて可愛らしいんだけど、そこはそれ、アメリカ製という事を忘れちゃいけない。まず、水を入れるタンクの目盛、通常「これ以上水を入れないでください」という意味で記される物なのだけれど、実際にその目盛まで水を入れると、ヒーターが収まらない。つまり、その限界目盛からヒーターの容量分の水を差し引いた量が最大水量になるという、なかなか図形認識力を試される代物だ。で、水を入れるだけでは加湿してくれない。塩を一つまみ入れるんだけれど、その分量も曖昧。だけど、その塩加減が結構重要だったりする。そして、最大の欠点として、「定期的に手入れしなければいけない」という事が有る。大抵の製品は定期的に手入れしなければならないのだけれど、この加湿器、手入れするのにドライバーを必要とし、しかも、とても定期的に手入れをする事を前提にしているとは思えない構造になっている。手入れするからには、洗浄などで水を使うだろうし、そもそもが加湿器なんだから水を使う製品なのだけれど、防水処理されることもなく電源の端子が剥き出しの状態だったりする。その上、水を加熱するのに電極を用いる方法を取っている為、手入れを怠ると異物が電極に蓄積されてショートする危険性が有り、そういう類の注意書きは日本のメーカーの製品でもよく見かけるのだけれど、でも大抵の場合は「そんな事しねーよ」っていう様な無茶な使い方をした場合などを想定してるのがほとんどなんだけれど、この加湿器の場合、本当に、マジで危険なのであって、「何か変な音がするなぁ。」と思い、ちょっと掃除してみようかと思ってバラしてみると、危うくショート寸前の状態だった。こんな危なくて手入れが面倒くさい製品、日本のメーカーなら絶対に苦情モノだと思うのだけれど、最近近所のホームセンターでも見かけるくらいだから、結構売れているんだろう。そして、多分その数だけ苦悩する人が増えているはずだ。

買う側からすれば、商品は安いに越した事は無いのだけれど、いくら安くても譲れない部分は有ると思う。海外で生産された商品が溢れ返る中で、改めて「Made in JAPAN」の良さを実感する。実は100円ショップに並ぶ製品の中にも、日本製の物が有る。頑張れ。Made in JAPAN。

 

オークションとファブリーズ 2005年2月26日(土)

ここの所、オークションで幾つかの買い物をした。必要な物が割安で手に入ったり、普段なかなか見かけない物をアチコチ探す事無く自宅に居ながらにして購入出来たりして便利なのだけれど、僕には1つ気になる点が有って、それは詐欺まがいの信用出来ない相手から購入してしまう危険性とかではなく、出品者のタバコの臭い。

僕はそれ程頻繁にオークションを利用する訳ではなく、それには色々理由が有る訳なんだけれど、それでも客観的に見て必要かつ充分安いと思える物とか、希少で入手が困難な物とか、そういう物はオークションで取引したりもするのだけれど、その中でもそれなりの確立で「タバコ臭い」商品が届いたりする。まさかタバコ臭いという理由だけで出品者の評価を下げる程僕も大人気無い訳ではないのだけれど、それでもこれから大切に使おうと思った物が、前オーナーの生活感溢るる物だったなんて、あんまり良い気分ではない。

僕はタバコは吸わなくて、一時期吸っていたのを止めた訳でもなく、生まれてこの方吸った事が無いというか、1、2度は吸ったかもしれないけれど、ほぼ全くと言っていい程吸っていない訳で、この辺りについては昔つぶやきでも書いたのだけれど(僕自身いつ書いたか忘れた)、タバコを吸わない者からすれば、タバコ臭ってかなり敏感に感じられる。そんな事言うと何だか凄く女々しい印象を受けるかもしれないけれど、昔就職の面接の時に「何でタバコ吸わないのか?」という質問に対して、僕が「臭いから」と答えたら、「何だ、そんな女みたいな事言って」などと言われた経験が有るのだけれど、僕はタバコその物の臭いを言っているのではなく、タバコの残り香と体臭が混ざると、そりゃもう自分でも不快になる位臭いのであって、つまり、そういう事を言いたかったのだけれど、喫煙者の方で品物を送る際は、ファブリーズした方が良いと思う。なんて事を、包みを開けた瞬間に立ち上るタバコ臭を嗅ぎながら思った。

 

ひたすらな愛情 2005年2月24日(木)

「一個人としての〜云々」と、いくら言ったところで、僕は父親という責務からは絶対に逃れられないのであって、子供を授かった時点から、父親という立場であるとか、責任であるとか、肩書きであるとか、そういうものが絶えず付きまとう訳だけれど、でもそれは負担であるとか、重荷であるとか言う訳ではなくて、親の愛情とでも言うべきものだろうか。

それは、親兄弟とか、恋人、配偶者に対する感情とも違い、ただひたすらに、無条件で、偉大で、無限な愛情。自分自身よりももっと大切な存在というものを知っているか否かというのは(恋人や配偶者も、自分より大切と言えない事も無いのだけれど)、物事を見る目とか、価値観とか、全く違ってくると思う。ひょっとしたら、僕の存在理由は子供を授かった時点で既に半分終わっていて、子供を育て上げた時点で終了するのかもしれない。子供の為に自分の人生を犠牲にするとか、子供に対して甘やかし過ぎだとか、そういう事ではなくて、自分にとって大切なものを順番に並べた時に、真っ先に来るものが自分の子供だという事で、僕の娘が結婚し、子供を産み、「色々あるけど、でも幸せよ。」って言ってくれたなら、僕はもう思い残す事は無いんじゃないかと思い、結婚し、子を産む事が普遍的な幸せであるという考え方など前世代的なものかもしれないけれど、いつの時代でも我が子が幸せな家庭を築いてくれるのが親にとっては一番幸せな事なんじゃないかと思うし、それに比べたら自分自身の事など取るに足らないと思えるからだ。

今の世の中、「結婚して子供を産む」という事は、必ずしも当たり前ではなくなったのだけれど、そういう事が当たり前でなくなった結果が、今の「色々な事が当たり前じゃなくなった」世の中なのかもしれない。少なくとも、親の愛情がどんなものか知っていたら、簡単に自殺したり、人を殺したりは出来ないんじゃないか。だからと言って、皆が結婚して子供を産むべきだとは言わないし、全ての親が自分の子供に対して深い愛情を抱いている訳でもないし、個人の権利とか、主張とか、尊重とか、確かにそういう事も大切ではあるだろうけど、だけど、親の立場にならなければ、亡くなったお母さんのやるせない思いも、残された子供達の絶望的な気持ちも、計り知る事など出来やしない。親の立場であっても、当事者の気持ちなんて計り知れないのだけれど。

 

早春の空を見上げながら 2005年2月23日(水)

娘の友達のお母さんが、亡くなった。あまりに急な出来事だったから、ウチの奥さんはかなりショックだったようで、ほとんど面識が無かったとはいえ僕も同じ年頃の子を持つ親だから、少なからずショックだった。幼子を残してこの世を去らなければいけないのは、さぞ心残りだっただろう。まだまだ母親を必要とする時期に、いきなりお母さんが居なくなるなんて、子供はどんな気持ちなんだろう。それを思うと胸が痛んだ。

交通事故で、バイクの事故で、病気で、周りの知人、友人が亡くなっていく。死なないまでも、入院したり、体調を悪くしたりする中で、否が応でも「死ぬこと」について考えさせられる。死ぬって事は、今生の別れなんだよ。もう2度と会う事も、話す事も出来ないんだよ。そんな事、改めて言わなくても当たり前な事だし、誰しもいつかは必ず死ぬんだけれど、でも、それってどういう事なんだろう。僕が死んだらどうなるんだろう。奥さんが死んだらどうなるんだろう。それは辛くて悲しいなぁ、と思うものの、翻って、それじゃあどうして生きるんだろう? あれ? 何でだろう?

「何の為に生まれて、何をして生きるのか」と、アンパンマンは問い掛けるのだけれど、自分の存在理由を、生きる目的をハッキリと言える人って、一体どれだけ居るんだろう。僕とて、「我が子を育てる」という責務は有るものの、父親としての意義ではなく、一個人としての意義って考えた時、一体何が有るんだろう。金とか、物品とか、バイクとか、少なくともそんな事では無い様な気がする。溢れる程の金や物に囲まれたとしても、死に際に「もう満腹。思い残す事は無い。」と、言い切る事なんて出来やしない。もっと高尚な、精神的な何かじゃないかと思うのだけれど、何をすれば自分は満たされるのか、その為に自分はまず何をするべきなのかを、早春の穏やかな空を見上げながら考えてみる。

 

排気音とピュアな世界

その雑誌のコラムでは、「灯火器を外し、爆音サイレンサーと競技用タイヤで野山を走り回るライダーが多い。そういう事に配慮するのは当たり前の事で、改めて論じられる様なレベルの話ではない。」という様な内容だった(実際にはもっと色々有るのあけれど)。

僕が住む所は山も近くて、林道もあちこちに有る。以前はよく走りに行っていたのだけれど、今ではほとんどの林道の入り口に鉄製の巨大なゲートが出来、一般の人は走る事が出来なくなった。色々意見は有るだろうけど、僕は案外「仕方が無いな。」と思った。軽量なバイクとそれなりのテクニックが有れば、ゲートの隙間を縫って林道に入る事も不可能じゃない。だけど、僕はそこまでして走る気にはなれなかった。

以前人から聞いた話なんだけれど、ある人が林道にバイクで走りに行った時、林業の為に停めてあった車に突っ込んだそうだ。その突っ込んだライダー、開口一番「何でこんな所に停めとるんじゃ!」と怒ったらしい。その話を聞いて、同じライダーで、しかも同様に林道を走るオフロードライダーである僕でも唖然としてしまい、苦笑いするしかなかった。そりゃ、見通しが悪い所に車を停めておいた作業者も悪いかもしれない。だけど、仕事をしていたらいきなり暴走バイクが自分の車に突っ込んできて、逆ギレ。しかも怪我をしていたら放っておくわけにもいかず、仕事を中断して麓の病院まで連れて行かなければいけない。その後もバイクや車の修理はどうするんだ?と揉めるだろう。それでもなおライダーの肩を持つ気になるだろうか。オフロードライダーがこんな人達ばかりではないかもしれないけれど、近所の林道にゲートが出来た理由もそういういざこざが有ったからだと聞いたし、この話が例外的な一例であるとも思えず、そんな事が度々起こればゲートを設けて立入禁止にするのも無理は無いと思えた。

サイレンサーにしてもそう。よく、「排気音は大きい方が周囲に気付いてもらえるから安全だ。」と言う人が居るけれど、もっともらしい意見の様で実はトンチンカンだ。自分が安全に走れる様に、自分自身が気配りをしなければいけないという事で、その為には排気音の大きさは問題じゃないという事だ。先がどうなっているか分からない様な見通しの悪いブラインドコーナーで、限界ギリギリの走行をするのはバカとしか言い様が無い。先がどんな状況であっても対処出来る走り方をするべきで、排気音で「どけ!どけ!道を空けろ!」と言うのは虫が良過ぎるというか、端から見れば不快でしかない。林道の道中だけではなく、林道に行くまでに小さな集落を抜ける場合も少なくなく、静かな山村に爆音を轟かせるのは、僕は無粋な気がして非常に気が引ける。

林道の途中、休憩の為にエンジンを切った時、エンジンが止まった途端に静寂が訪れるあの感じ。聞こえるのは、草木を揺らす風の音と、鳥のさえずりだけ。排気音など、静かに越した事は無いのかもしれない。もし林道を走るバイクが音を発しなかったなら、聞こえてくるのはタイヤが地面を蹴る音と、自分の息遣い、そして風の音と鳥のさえずりだけ。僕らライダーには分からない、もっとピュアな世界が感じられるかもしれない。

 

スタンス 2005年2月19日(土)

BIG TANK MAGAZINE」という雑誌を読んでいる。と、言っても、2000年と2002年のバックナンバーなんだけど。この雑誌、普通の書店では売ってなくて、読みたければ購読申し込みをしなければいけないのだけれど、その代金を郵便局で振り込むのが面倒臭いし、本の代金と変わらないくらいの送料が掛かるし、イマイチ踏ん切りがつかなかったんだけれど、お得なバックナンバーのセット品をとりあえず買って読んでみることにした。オフロードバイクが衰退する中、オフロードバイクを扱う雑誌も淘汰され、それでも数誌は今でも残っているのだけれど、そのオフロードバイクの雑誌にあってもラリーレイドとか、エンデューロレースとか、そういう類の情報に割かれるページは極めて少ない。薄っぺらくて、しかもモノクロなこのBIG TANK MAGAZINEは、そういう情報に特化したもので、それだけにどの雑誌よりも内容が濃い。

その中のコラムに、オフロードバイクユーザーの今後のあり方というか、考え方というか、スタンスというか、そういう事が書かれていて、一部何だかなーと思う部分が無い事もないけれど、共感する所も多かった。それは、僕がハイポテンシャルなピュアスポーツマシンから離れ、乗り難いビッグオフを選択した理由でもあるからだ。

数年前、バイクの排気ガス規制が行われるという時に、某バイク雑誌でその特集をやっていた。そこで、「規制される前の古いバイクは今後乗れなくなるのか?」という疑問に対して、「規制前のバイクでも大丈夫。大手を振って乗れる。」と書いてあった事に対し、僕は少々表現がおかしいのではないかと感じ、投稿した事がある。確かに規制前のバイクでも合法的に何の問題も無く乗る事が出来るのだけれど、それじゃ古いバイクのユーザーは何も考えなくて良いのか。何もしなくても良いのか。山の中を走り回るオフロードバイクは、ライダーもマシンももっと環境に対して配慮されるべきじゃないのか。もっと言えば、メーカーもモトクロスやエンデューロ、ラリーレイドで積極的にそういう取り組みをして、ライダーに指し示す必要があるんじゃないか。と、いう様な内容だったと思うのだけれど、その投稿は読者にひどい反感を買った。「そんな事を言うなら、もっと排気量の大きな車やビッグバイクこそが規制されるべきだ。」とか。もちろんそんな事は当たり前で、でも僕が言いたかったのはそんな極論ではなく、「オフロードバイクはエンジン小さいからOK。関係無いもんね。」というのは、あまりに稚拙な考え方じゃないのかと思うのだ。そう言う僕も規制前の古いバイクに好き好んで乗っているのだけれど、それは「大手を振って」なんかじゃなく、どちらかといえば「申し訳ないけど」という感じだ。当時は環境問題もハシりな時期だったから、疑問を感じる人も少なかったかもしれない。だけど、今現在でもライダーの意識ってさほど変わってないんじゃないだろうか。そして、相変わらず自らの首を締めてる様な気がした。

 

スーパーと世の中の裏側で 2005年2月17日(木)

スーパーに勤めるお義母さんが、チョコレートケーキを貰ってきた。売れ残り品で、業者に返品する物だったらしい。お陰で僕は美味しい思いが出来た訳だけれど、その一方で、売れ残り=返品=廃棄処分。どういう形であれ口にされるならまだ救われる。浮かれた世間の裏側で、山の様にチョコレート菓子が捨てられてるんだろう。別に僕がチョコを貰えなかったからといって、浮かれたイベントを非難するつもりはない。だけど、これで良いのかな。

今年の春から、娘が小学生になる。その説明会で、「傘をさせない子が居る」という話が有ったらしい。保育園は送迎バス。普段も車で移動。雨の中を歩く機会も無いから、傘もさせない。小学1年生にはランドセルすらも大荷物で、その上傘をさして学校までの道程を歩く事は、大人が想像するよりも遥かに過酷だろう。だから徐々に慣らしていく必要があり、学校幼稚園なら小学生と一緒に歩いて登校出来るし、学校がどんな感じなのかを窺い知る事も出来るのだけれど、最近は幼稚園に行く人が極端に少ない。保育園の多彩な教育、英会話やパソコン、高度な学芸会などが、父兄には魅力的に映るからだ。

ランドセルも、傘をさして歩く事も、子供ならすぐに慣れるだろう。そして、英会話も、パソコンも、子供が自ら興味を持てばすぐに体得できるだろう。何が本当に大切で、今、子供に何をさせ、僕は何をするべきかハッキリとは分からない。自分で歩く事が大切だと分かっていても、何もかもが過剰で飽和な今の時代、進んで辛い思いをする事はなかなか難しい。だけど、この先世の中がどうなるかも分からないけれど、少なくともしっかりと自分の足で歩き、自分で道を作っていける子供であって欲しいと思う。

 

男の宝箱 2005年2月16日(水)

自分でバイクや車を整備する人は分かると思うけど、工具を入れる道具箱って結構重要だ。僕は昔買った樹脂製のツールケースを使っているんだけれど、これがどうも使い勝手が悪い。収納性や強度は悪くないのだけれど、箱のフタを開け、2段になったトレーを取り外さないと中の収納物が取り出せない。つまり、作業をしようとすると道具箱を開け、トレーを2つ並べないといけなくて、とっ散らかるのだ。

使い勝手を考えると、やっぱり一般的なチェストタイプ(天辺は蓋を開ける構造で、前面に2〜3つ引き出しが備わる形状)が一番使いやすいみたいで、そこで度々道具箱を新調しようと思うものの、たかが道具箱と言えど良い物は結構値が張るし、工具は必要でも道具箱はどうしても必要という物でもないし、なかなかめぼしい物も無いし、と思っていた所に、ビビビと来る素晴らしきツールケースを雑誌で目にした。KTCのコレ!

ちなみに箱だけで2万円。入れ物に2万円掛けるのは勇気が要る。

 

ハッピー携帯 2005年2月15日(火)

コンビニでチョコのお菓子を買うのも躊躇われるこの時期。ショッピングセンターにもピンクに彩られた一角で女性がたむろし、オジサンには近寄りがたい雰囲気をかもし出している。

大勢の男性が一喜一憂したであろうこの時期、僕は相変わらず忙しくてそんなイベント事に付き合っている暇も無く、会社には女性も居なく、いや、正確にはパートのオバサンとかは居るけれど仕事上は無関係な人達ばかりで、僕はそんなイベントに腐心する事も無く過ごせたのに。

のに! 僕の携帯の画面には勝手に「St バレンタインデー♪」の画像がっ!

携帯を見る度に「ハッピー!バレンタインデー!」

この役立たずの携帯、いつか捨ててやる。

 

曖昧さと人間味 2005年2月10日(木)

先日、大学を受験する学生が乗り間違えた新幹線を停止させた、というニュースがあったのだけれど、その件に関しては大した事だとは思わなかったものの、その評価には少々疑問を感じた。皆一様に冷たいのだ。「注意が足りなかったのは本人の責任だ。」「甘いんじゃないか。」とか。そんな意見ばかりではないとは思うけど、ニュースのコメンテーターの様な出演者も言っていたし、とあるコラムでもその様な意見があり、そういう否定的な意見は少なくない。

でも、本当にそうなんだろうか。確かに本人の不注意が原因ではあるし、「間違えた」からといって取り返しがつく事ばかりではないのだけれど、だいたい人は間違えるものだし、田舎から出てきて慣れない新幹線に戸惑ったのかもしれないし、それなら試験会場近くで前泊すれば良いじゃないか、と言っても不景気で家計が苦しいとか、お父さんリストラされちゃって宿泊費が出ないとか、まぁ、そこまで突っ込んだ状況はプライバシーに関わるのだけれど、そんな当事者を取り巻く環境や状況も知らずして、「間違えたお前が悪い。自業自得だボケ。」と言うのはいささか軽率過ぎる様な気がして、イラクの人質事件でも「自己責任」が問題になったけれど、どうも最近世間からは殺伐とした印象しか受けなくて、そもそもが「困った時はお互い様。」「困った人には手をさしのべよう。」というのは日本の道徳だったんじゃないのか。他人事だから皆好き勝手言える。後からなら誰だって何とでも言える。自分は些細なミスなど絶対犯さないと断言出来るだろうか。もしミスを犯してしまった時に、それがどんな事態であっても「何とかしてください。」と人にすがる事も無く、「自業自得だから。」と諦める事が出来るだろうか。

と、言うのは、実は僕も同じ経験をした事が有るからだ。僕の場合は受験ではなく、大学の定期試験だったし、電車の乗り間違いでもなかったけれど。いつもの通い慣れた電車だから、乗り間違える事も無かった。ちゃんと僕が降りるべき駅でも停車する列車だ。だけど、試験の為にいつもと違う時間帯で乗った電車は、いつもより少し長めの車両編成で、停車する駅のホームに対して車両が長いから、前寄り半分の車両しかドアが開かない電車だった。それは何度も車内アナウンスで流れていて僕も聞いてはいたけれど、降りる駅の手前で前に移動すればいいや。と思い、いざ移動しようと思ったら、前半分に行く為の連絡通路が無い。丁度電車の真ん中で、名鉄パノラマカーの先頭車両が向かい合わせで連結されていて、先頭車両には構造上通路が無かったのだ。これはヤバい。降りるべき駅は刻一刻と近づいているのに、駅で降りれない。定期試験とはいえ、履修単位が掛かっているんだから、試験を受けられないと留年になりかねない。しかし、先の駅まで行って戻っているほどの余裕も無い。何とか車掌さんを捕まえて、事情を説明し、車掌が確認の為出入りするドアから降ろしてもらう事が出来た。

時と場合とか、限度は有るだろうけど、甘えなど無くても人間なんだからミスを犯してしまう時が有るはずだ。そして、そのミスに対して、良い意味で適当に対処出来るのも、人間だからなんだよね。例外を許すとキリが無い、という事もあるだろうけれど、それでもそういう曖昧さというのは素敵な人間味でもあると思うのです。賛否両論色々あると思うけれど、「良い話」に水を差すのは大人のやる事ではないと思うのです。

 

スタンダード 2005年2月9日(水)

部品が手に入らないというのは、バイクの修理に限らずとても困った事になる。極普通の人にとっては致命的で、=製品の寿命にもなりかねない。

ウチの洗濯機が壊れた。スタートボタンを押しても、ウンともスンとも言わない。洗濯機を引っ張り出し、くそ寒い中バラして調べた結果、どうも洗濯槽の水量を測る水レベルセンサか、それを制御するメイン基盤の不良みたいだ、という所までは分かった。が、僕にはどうしようもない。使っていた洗濯機はマイナーなメーカーの製品で、部品が手配出来るかどうかも分からないし、仮に手に入ったとしてもレベルセンサやメイン基盤の交換となると、それこそ安い洗濯機を買いなおした方が余程マシ、という事になりかねない。

クソ寒い日が続く中、石油ファンヒーターが壊れた。電源を入れても火が点かない。木枯らしに吹かれながら分解して調べたけれど、結局原因が分からない。やむを得ずお蔵入りさせていた石油ストーブを出してきたのだけれど、これまた火が点かない。すったもんだした挙句、火を点ける芯の部分が悪い事が分かったのだけれど、マイナーなメーカーの製品だったものだから、近場で芯を売っている所が無かった。

奥さんは、「ストーブなんて、そんなに難しいモノじゃないでしょ。どれもみんな同じ様なモノなんでしょう。」と、簡単に言うのだけれど、それじゃあストーブの中はどうなってんの?って知ってる人が一体どれだけ居るだろう。僕だって理屈くらいは分かる。芯で灯油を吸い上げて、燃焼しやすい状態にし、そこで火を点けてるだけだ。だけど、何の手掛かりも無くストーブの分解方法や、芯の取替方法を探すのは結構難しい。修理用の説明書などでやり方が分かっていれば容易いかもしれない。だけど何も分からない状態、更にストーブの芯替えなど未経験な僕が行なうには、何処のネジを外し、どうやって分解していくのか、構造を逐一理解しながら行わなければならず、それは意外に骨が折れる作業だ。結果的には不良灯油を使った為に芯にタールの様な不純物が固着して灯油を正常に吸い上げる事が出来なくなったみたいで、替芯が手に入らなかったから、傷んだ芯の上端だけ取り除いて使う事にした。ストーブはそれで何とかなったものの、ファンヒーターは僕では手におえなくて、恐らく灯油を気化させるヒーター付近が悪いのだと見当を付けたものの、そのヒーターが何処に有ってどんな構造になっているのか、それがどの様に悪いのかまでは判断出来なくて諦めた。

つまり、そういう作業はやって当たり前。出来て当たり前。直せないのは甲斐性無し。というのではなく、数千円〜1万円程度の電化製品の不良個所を見極めるだけでも結構骨が折れるという事と、後々の事を考えればスタンダードなメーカーの製品を買った方が良いという事を分かってもらいたいのです。

そういう苦労を幾度か経験してきた僕には、「他人が乗っていないから」という理由だけでマニアックなバイクや車を選んだ話を聞くと、ちゃんちゃら可笑しくて、僕のDR−BIGもいっぱい売れれば良いのになーと思ってみたものの製造中止。

 

本質 2005年2月8日(火)

部品が手に入らないというのは、バイクの修理に限らずとても困った事になる。極普通の人にとっては致命的で、=製品の寿命にもなりかねない。

昨年僕がバイク(DR−BIG)のエンジンを修理した際、バイク屋から0.5mmオーバーサイズのピストンリング(*1)が入手不可という事を聞かされた。0.5mmオーバーサイズのピストンが入手可能かどうかまでは知らないけれど、ピストンだけ有ってもピストンリングが手に入らないのでは役に立たないので、実質0.5mmオーバーサイズは使用不可能という事になる。それらが入手出来なくても、例えばスリーブを打ち替えて(*2)標準サイズのピストン&リングを使うとか、ワンオフ(*3)でピストンやピストンリングを作るとか、エンジンを再生する手立てはまだ残されてはいるものの、メーカー純正品を使うのと比べれば比較にならない程費用が掛かり、目的がパフォーマンスの向上ではなく性能の回復と維持という事ならなるべく費用が掛かる大掛かりな作業は避けたい。実際には1.0mmオーバーサイズもパーツとして存在しているし(こちらもメーカーの在庫状況までは知らない)、人気が有って販売台数が多いメジャーな車種なら社外品が市販されているかもしれないし、また、使用可能な中古のパーツが手に入るかもしれないのだけれど、一般的にはメーカー純正部品を使うのが、一番早く、確実で、安価だと思う。

僕はトヨタの車が好きじゃない。あまりにユーザーに媚びを売り過ぎた印象(というよりも、車が趣味という人を対象には考えていない様に感じる)が好きになれない理由なのだけれど、先日ちょっと考えを改めさせられる事があった。とある雑誌に、ユーラシア大陸を車で横断するという連載記事が載っていた。そこで使われていたのがトヨタのステーションワゴンだったのだけれど、日本の様に道路事情が良い所ばかりではないから荒れた未舗装路も多く、ロシアを移動中にサスペンションが壊れた。でも、ロシアのトヨタディーラーですぐに修理が完了したそうだ。ロシアにもトヨタのディーラーが有る事にも驚いたけれど、そんな最果ての地でもトヨタのサービス(部品供給も含めたトータルでのサービス体制)が行き届いている事には驚かされた。

世の中は豊かになり、車に求めるモノも多種多様になった結果、「車」という本質的なものを見失っていたみたいだ。人を乗せ、荷物を載せて目的地まで到達する事。いくら官能的なパワーフィールであっても、素晴らしいハンドリングであっても、快適な乗り心地であっても、走らなければ車の意味を成さない。どんな状況であっても、どんな使い方であっても目的を達成する事が出来る、もしくは不動になってもリカバリーが早急に、容易に出来る事は、もっとも重視されるべき事で、壊れて直すのも1つの楽しみであるとか、部品が無い状況からいかに復帰させるかという工夫を考えるのも腕の見せ所ではあるものの、メルセデスのオーナーが砂漠の真ん中でエンコした。すぐにサービスが駆けつけて修理した。金を払おうとしたオーナーにサービスマンが「(メルセデスが故障するなどという事は)あってはいけない事ですから。」と、言って代金を受け取らなかった。という逸話を聞いた事が有るけれど、現実的にそんなバカな事があるはずもなく、砂漠のど真ん中でエンコするという事は命にも関わる一大事であって、そんな悠長な事を言えるのは、結局の所メーカーや今の状況に甘えているだけなんじゃないかと思った。それを示す様に、ロシアのトヨタディーラーのオーナーが「車さえ供給してくれれば、いくらでも売る自信は有る。」と、言っていた。

メルセデスやBMW、フェラーリやポルシェは先進的で本当に素晴らしい車なんだろう(実際に乗ったことが無いから断言は出来ないけど)。だけど、実はトヨタこそが車の本質を見失っていないのかもしれない、と思うのは、ちょっと買い被り過ぎだろうか。そして、バイクにしても同じ事が言えて、経験を積むほど、コアなユーザーになるほど海外崇高度が高くなる様に感じるけれど、それでも国産車の存在はやはり庶民にとってはとても有り難いものだと思うのです。

メカや整備に詳しい方には説明するまでもない事と思いますが、何言ってるの?チンプンカンプン?っていう人は下記を参照してイメージの手助けとしてください。

(*1) 0.5mmオーバーサイズ

エンジンを傷めた際に修理に使う補修部品。ピストンに傷が入り、使用不可能になった場合、標準よりも外径がすこしだけ大きい(+0.5mmや+1.0mmなど数種類のサイズが用意されている)ピストンとピストンリングを使って修理する。これはシリンダーに鉄スリーブが使われているエンジンに限った修理方法で、最近多く使われているメッキシリンダーと呼ばれる物では構造上この方法は使えない為、オーバーサイズの純正パーツは存在しない。

(*2) スリーブの打ち替え

最新のエンジンではスリーブレスのシリンダー(俗に言うメッキシリンダー)が多いのだけれど、オーソドックスな構造のエンジンの場合、ピストンはシリンダーの中を直接上下動するのではなく、シリンダーブロックの中に収められたスリーブ(鋳鉄製の筒)の中で動作している(参照画像)。通常、スリーブにはある程度の余裕(厚み)が有る為、オーバーサイズピストンを使う場合、少し大きくなったピストンの径に合わせてスリーブの内側を切削し、ダメージを受けて生じた傷を消して使う。このスリーブはシリンダーブロックにはめ込んである為、取り外して交換する事も不可能ではないのだけれど、スリーブの製作費用や、取外し、取り付けの作業費等が掛かり、結果的に高額の出費になる。

(*3) ワンオフ

特注で作る一品モノ。バイクも結局の所人が作った物なのだから、大抵の部品は工場やショップで作る事が出来る。ただ、大量生産品、一般的な市販品ではないので、暴利をむさぼらなくても非常に高価になってしまう。

 

最初の一歩 2005年2月6日(日)

僕がどうしてこうもラリーについて執拗に考えいるのかといえば、それは僕の焦りというか、じれったさというか、そんな焦燥感からだろう。現実的にラリーに出る出ないは別として、ラリーのビデオを見たり、既にラリーに参加した人のレポートや雑誌の記事を読んだり、そして今正に参加しようとしている人達の行動力を目の当たりにし、それに引き換え僕が何も出来ないで居る事。僕はラリーどころか、自分のバイクに乗る事さえ出来ず、何も出来ない。努力とか、そんな物が全く役に立たない。本当に何も出来ない。壊れたバイクの部品が入らないからだ。

昨年の11月ももう終わりという頃になって、再びバイクのエンジンを修理するハメになった。落ち込んでいても仕方が無い。早速作業に取り掛かり、すぐに部品も注文したのだけれど、結局2ヶ月以上待ちぼうけを食らう事になった。ここ数日は冷え込みが厳しい日が続いたものの、それまでは割と穏やかな日が続き、冬場ではあってもバイクに乗る事が出来たであろうに、部品が入らないばかりに僕がどれ程じれったい思いをしたか。皆はそれぞれの目標に向かい努力している中で、僕はいまだ自分のバイクに跨る事すら出来ない。

そんなバイクの部品がようやく手に入った。週末の夜、深夜まで作業を続けてエンジンを組み、車体に載せた。試運転の為に、畑の中を抜ける細い路地を走ってみた。久しぶりの愛車。モンゴルのピストをイメージして、スタンディングのライディングスタイルをとってみる。僕はやっと今一歩踏み出す事が出来た。

 

クールフール 2005年2月2日(水)

ラリーに軽トラで出たら面白そうだなーと思ったものの、実際にやるには相当な苦労が伴う事は目に見えているのだけれど、そんなおバカな事をずっと以前にやった人が居るという事を、ある人が教えてくれた。おバカな事をやってのけたのは、菅原義正氏だ。

菅原さんは、パリダカのカミオンクラス(トラックの部門)の常連で、今年も2位で完走している。また、バイク、車、カミオンの3クラス全ての出場経験があるとか、日本人パリダカ最多出場経験であるとか、今更説明しなくてもその筋では超有名な人なのだけれど、実は僕は菅原さんの事はあまりよく知らなくて、ベイジン〜ウランバートル・ラリーの情報を集めていた時に、その前身であるRRM(ラリーレイド・モンゴル)にホンダの小型バギーで出場していたり、また、時にはカミオンバレイ(リタイヤした競技車両を回収、運搬するトラック)のドライバーとしてスタッフとして参加していたのを知り、そのついでに経歴を詳しく知ったというのが本当の所。

だけど、高性能なマシンや万全の体制を整えたとしても完走出来るとは限らない非常に過酷なラリーにおいて、個人が一般的ではないマシンで参加する事は並大抵の事じゃない。以前RRMにATV(競技用の小型バギー)で参加した人が居たけれど、苦戦を強いられ、結果的にはリタイヤになった。それを見ても、菅原さんが容易く完走出来たとは到底思えない。軽トラでファラオラリーを完走し、小さなバギーでRRMを走り抜き、半数以上がリタイヤするパリダカで、カミオンクラスでは100%の完走率を誇るという。並じゃない。

無謀なチャレンジをするだけなら誰でも出来る(これは「一般的に」という意味で、先のATVライダーを差している訳じゃない。むしろ彼のチャレンジスピリットは賞賛に値すると思うし、また、その年のRRMはATVには不利な川渡りがとても多く、完走率も低かったので、単純に比較は出来ない。)。でも結果を残さなければ、他人には「単なる馬鹿げた行為」としか見えないだろう。そもそも、世間から見ればラリーに出る事自体が既にバカげた行為なんだろうけど、そのラリーにネタ的なマシンで参加する事は、もう桁外れのバカとしか言い様がない。そんなバカを成し遂げる事は、タダのバカでは出来ないと思った。

クールでクレバーなバカでありたいと思う。

 

銀行 2005年2月1日(火)

役場も銀行も、週末に窓口を開けろ。それくらいやる気になれば簡単に出来るだろう。そう思っていた。だけど、メルマガの投稿を読んで、少なくとも地方銀行は、労働条件も賃金も僕が想像していたよりも遥かに厳しい状況だった。みんな人知れず頑張ってるんだろう。根拠の無い想像で、決め付けるのは良くないね。

だけど、週末のATMで掛かる手数料の105円を惜しんで不自由する僕は、あれは何とかならないものかといつも思うのだけれど、消費者金融が大流行りな今時に手数料の105円を惜しむ客をないがしろにしたところで、大した問題にはならないのかも。

戻る

inserted by FC2 system